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津山商工会議所 所報8月号『今月の経営コラム』
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「日本経済の長期展望を明るくするために」
大和総研は直近(6月9日)の「第225回日本経済予測(改訂版)」[注1]で、足元の日本の経済予測に加えて、「2040年度に向けた日本経済の長期展望」を公表した。そのテーマは「人口減少と低成長が続く日本経済は今後、成長力を強化し、社会保障や財政の持続可能性を確保することができるだろうか」である。
このテーマの中で、最大の懸念は人口減少である。今年の6月4日に厚生労働省から公表された「令和6年(2024)人口動態統計月報年計(概数)」では、人口減少のスピードに拍車がかかっていることを示す数字が並んでいる。(1)合計特殊出生率(「一人の女性が一生の間に生む子どもの数」に相当するデータ)は9年連続低下し1.15と過去最低を更新するとともに、統計開始以来、初めて出生数が68万6061人と70万人を割り、(2)死亡数は160万5298人で過去最多(4年連続増加)となり、(3)自然増減数は、91万9237人減で過去最大の減少となった。特に少子化のスピードには衝撃を覚える。これに対し、政府の少子化対策の役割を担う「こども家庭庁」は「少子化・人口減少は、我が国が直面する最大の危機であり、若年人口が急激に減少する2030年代に入るまでが少子化傾向を反転できるかどうかのラストチャンス」[注2]とし、喫緊の課題と位置付けている。2023年12月22日に閣議決定された「こども未来戦略」では、総額3.6兆円規模に及ぶ「こども・子育て支援加速化プラン」(加速化プラン)を取りまとめた。さらに、24年6月12日には「子ども・子育て支援金制度」の創設を内容に含む法律「改正子ども・子育て支援法」が成立し、25年4月1日から同支援法の一部が施行されている。これらを踏まえると、政府も手をこまねいているわけではないが、加速化する少子化に対策が十分とはいえない。
「2040年度に向けた日本経済の長期展望」では、次の懸念事項として、40年度まで低成長が続くのではないかということを挙げている。過去の日本経済の潜在成長率の推移を見ると、「1980年代後半で年率+4%程度だった潜在成長率(中略)は(中略)1990年代の終盤に同+1%を割り込んだ。その後も緩やかな低下傾向が続き、近年は同+0.5%前後で推移している」(注1レポートp.19)と整理している。この長期にわたる潜在成長率の低下は、財政出動や金融緩和だけでは解決できない構造問題[注3]が主因としている。つまり、これらの構造的な要因によって、①可処分所得の低下(賃金見通し悪化、低い資産所得など)②個人消費低迷(①により働き手の平均消費性向(可処分所得のうち消費に回る割合)が低下)③外需主導による企業収益は拡大している一方、内需主導の企業収益が相対的に低下④国内投資が低水準(内需型の企業の期待成長率が低く、国内の投資性向が低水準)であり、循環が弱い、経済成長が見込めないという悪循環に陥っている。
結局、好循環を生むスタートポイントは個人(家計)である。このため、国内外の大きな社会・経済の変化、生成AIなどのテクノロジーの劇的な進化の中で、生産性の高い労働力を提供し、賃金上昇を継続的に確保でき、消費性向が高い個人(家計)が継続的に増えることに、今後の経済成長は大きく依存することとなる。そのためには、「健康・就労継続」「外国人・女性活躍」「労働市場改革・就労促進」などの労働供給力強化のための政策が最も重要である。同予測においても、これらの「政策効果が最大限発現すれば、潜在GDPを2040年度で14.6%(86兆円)程度押し上げると試算」(注1レポートp.22)している。
ただし、潜在成長率の停滞から抜け出すことは簡単ではない。同予測では、三つのシナリオ(「衰退」「現状投影」「高成長」)が想定されている。この三つのシナリオによれば、25~40年度の実質GDP成長率は、順番に、年率▲0.5%、同+0.3%、同+1.5%である。つまり、最後のシナリオ以外は引き続き停滞が続くこととなる。ただし、最後のシナリオでも、「社会保険料率と公債等残高対GDP比の上昇は続く」(注1レポートp.18)としている。これまで以上のスピードで官民が連携して、労働供給力強化のための政策を、最優先で実現していくことが重要ではないか。
(6月20日執筆)
[注1]詳しくは大和総研「第225回日本経済予測(改訂版)人口減少下の日本、持続的成長への道筋①成長力強化、②社会保障制度改革、③財政健全化、を検証」の18ページから35ページ参照。https://www.dir.co.jp/report/research/economics/outlook/20250609_025147.html
[注2]こども家庭庁「子ども・子育て支援金制度について」
https://www.cfa.go.jp/policies/kodomokosodateshienkin
[注3]「①経済社会基盤の持続可能性の低下②デフレ下で定着したコストカット型の企業行動③産業空洞化④海外への所得流出⑤リスクマネーの供給不足」(注1レポートp.19)の五つを挙げている。
著者プロフィール ◇内野 逸勢/うちの・はやなり
静岡県出身。1990年慶応義塾大学法学部卒業。大和総研入社。企業調査部、経営コンサルティング部、大蔵省財政金融研究所(1998~2000年)出向などを経て現職(金融調査部 主席研究員)。専門は金融・資本市場、金融機関経営、地域経済、グローバルガバナンスなど。主な著書・論文に『地銀の次世代ビジネスモデル』2020年5月、共著(主著)、『FinTechと金融の未来~10年後に価値のある金融ビジネスとは何か?~』2018年4月、共著(主著)、『JAL再生 高収益企業への転換』日本経済新聞出版、2013年1月、共著。「第3次袋井市総合計画」審議会委員。IAASB CAG(国際監査・保証基準審議会 諮問・助言グループ)委員(2005~2014年)。日本証券経済研究所「証券業界とフィンテックに関する研究会」(2017年)。
中小企業のためのDX事例
「トップの決断と現場の工夫が支えたデータドリブン経営」
今回は「どんぶり経営」から「データドリブン経営」へと切り替わった製造業の事例です。新潟県にあるセキ技研株式会社は、1991年創業の製造業企業で、生産工程の自動化を図るFA(ファクトリーオートメーション)装置の設計・製造や電子部品の受託生産を手掛けています。従業員約100人のこの企業が注目される背景には、アナログで感覚頼りだったスタイルから、数値とデータに基づく経営へわずか3年で変化した点があります。
DX推進の起点は、二代目経営者の問題意識でした。属人的な判断や非効率な業務体制が温存され、収益や生産性に関するデータは一部の経営層しか把握していない状況。現場では「とにかく忙しくすればよい」といった空気がまん延していたといいます。
そうした状況を打破すべく、2021年にDX推進室を立ち上げ、戦略的なデジタル化が始まりました。これは「人口減少社会におけるモノづくりを再興する」という中期経営計画に基づくもので、DXを単なる業務改善の手段にとどめず、企業文化として根付かせることを目指しています。業績報告会の開催や部門別データの見える化、業績に基づく振り返り文化の醸成が進められ、全社的な業務の再設計が行われました。これにより、年間1700時間の業務時間削減などの成果が表れています。
現場には、アルバイトで入社し、独学でシステム改善に長年取り組むメンバーがいました。手作業による現品票発行や出荷履歴管理を地道に電子化した取り組みが、後の全社DXの土台となりました。また、新たに加わった技術担当者は、身近な「お弁当発注システム」の開発から着手。社員が昼食用の弁当を頼む際に使用し、注文時に効果音を鳴らすなどの工夫により現場にも自然に受け入れられ、DXへの心理的ハードルを下げました。
こうした取り組みのポイントは、トップダウンの明確な方針と、現場からの改善提案というボトムアップの動きが両輪となって進められたことにあります。さらに現在では、得られた知見は社外にも展開されつつあり、地域企業への支援にもつながり始めています。
この事例は、地方の中小製造業でも、経営者の覚悟と現場の創意工夫があれば、本質的かつ持続可能なDXが実現できることを力強く示しています。今ある課題に対して、小さくとも確かな一歩を踏み出すこと。それこそが、大きな変革への最短ルートなのかもしれません。
(この事例は筆者取材時のものであり、現在では異なる場合があります)
著者プロフィール ◇大川 真史/おおかわ・まさし
ウイングアーク1st データのじかん 主筆。IT企業を経て三菱総合研究所に12年間在籍し、2018年から現職。デジタル化による産業構造転換や中小企業のデジタル化に関する情報発信・事例調査が主な業務。社外活動として、東京商工会議所ものづくり人材育成専門家WG座長、特許庁I-OPEN専門家、ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会中堅中小AG副主査、サービス創新研究所副所長など。リアクタージャパン、Garage Sumida研究所、Factory Art Museum TOYAMA、ハタケホットケなどを兼務。経団連、経済同友会、経産省、日本商工会議所、各地商工会議所・自治体での講演、新聞・雑誌の寄稿多数。近著『アイデアをカタチにする!M5Stack入門&実践ガイド』。
日本史のトビラ
「世界のホンダをつくった本田宗一郎」
きっとラーメンの屋台の主人は、あまりの事にあぜんとしただろう。突然やってきた女性がありったけのラーメンを買っていったからだ。女性の名は本田さち。それを頼んだのは夫の本田宗一郎だった。
宗一郎は研究熱心で、毎日夜中まで車やバイクの新技術を考えていた。だがその夜、外のチャルメラの音が気になって集中できない。もちろん相手も商売。だからラーメンを全部買い取らせたのだ。
そんな宗一郎にある時、高松宮が「発明や工夫は、ずいぶん骨の折れる仕事だろう」と同情してくれた。46歳で宗一郎が藍綬褒章を受章したときのことだ。けれど宗一郎は「殿下はそうお思いでしょうが、私にとっては好きでやっているのですから全部苦労とは思いません。(略)人さまが見れば苦しいようでも本人は楽しんでいるのです」(『夢を力に』本田宗一郎著 日経ビジネス文庫)と答えた。
強がりではなかった。大きくなったら車をつくるという夢に向かって進んでいる道のりでは、どんなことも辛いとは思わなかった。ただ、営業や経理は苦手だった。そうした不得手は、人に任せるのが宗一郎の流儀。だから会社の経営は、副社長の藤澤武夫に一任し、宗一郎は開発の仕事だけにまい進してきた。
技術の開発に関して、宗一郎は他人のまねを極端に嫌った。部下が新しいマシンを完成させるたび、「どこが他社と違うのだ」と真っ先に聞いた。
宗一郎は言う。「造物主がその無限に豊富な創作意欲によって宇宙自然の万物を作ったように、技術者がその独自のアイデアによって文化社会に貢献する製品を作りだすことは何物にも替え難い喜び」(前掲書)だと。そんな技術者魂が、世界的にヒットしたスーパーカブ号や独自の低公害エンジン「CVCC」の開発へとつながったのである。
宗一郎は常々社員に「会社のためばかりに働くな。自分のために働け」と語った。結果としてそれが、会社全体を良くするという信念を持っていたからだ。
宗一郎は「自分の好きなものに打ち込めるようになったら、こんな楽しい人生はないんじゃないかな。そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。石は石でいいんですよ、ダイヤはダイヤでいいんですよ」(前掲書)、それを適所適材に配置するのが上司の仕事で、「そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。企業という船にさ、宝である人間を乗せてさ、舵(かじ)を取るもの、櫓(ろ)を漕(こ)ぐもの、順風満帆、大海原を、和気あいあいと、一つ目的に向かう、こんな愉快な航海はないと思うよ」(前掲書)と語った。社員がやりたいことをやれる企業、これを自社の理想としたのだ。そんな職場だったからこそ、ホンダは世界的な企業に成長できたのだろう。
著者プロフィール ◇河合 敦/かわい・あつし
東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。
トレンド通信
「”待たせ上手”なお店が教えてくれるもの」
先日訪れた岐阜市のとんかつ屋さんで面白い体験をしました。あらかじめネットで調べたところとても高評価なお店なので、お昼の開店時間に合わせて訪ねました。最近はやりの高級なとんかつ屋さんにあるように、何種類かの銘柄豚から選べるメニューになっています。注文を伝えると店員さんが「当店はじっくり低温で揚げますので、20~30分ほどお時間をいただきます」とのことでした。私はマニアに近いとんかつ好きなので、良いお店ではそれくらい待つのは珍しくないと思いました。
するとカウンター越しに見えるキッチンでスタッフがやおら土鍋を取り出して、私が注文した分のごはんを炊き始めました。始めは気が付かなかったのですが、客席から見える位置にガスコンロが7~8台ずらりと並んでいて、そこにごはんを炊く土鍋が四つほどのっています。先に注文した客の分でしょう。その隣に「私のごはん」がセットされました。
それから15分ほど、湯気を出して徐々に炊き上がっていく土鍋をわくわくしながら眺めていました。火を止めて蒸らしている間に、手元に茶わんとしゃもじ、香の物が出され、いよいよ土鍋ごはんの到着です。ふたを開けてもらって炊き立ての香りを楽しんでいるうちに、メインのとんかつもやってきました。土鍋ごはんは炊き立て特有の甘みやうまみがしっかり感じられてとてもおいしく、とんかつも断面が薄ピンクでジューシーに仕上がった絶妙な揚げ具合でした。出されたもの自体のおいしさ以上に、この体験全体を通して忘れられないお店になりました。次に岐阜に行くときも必ず訪れようと思いました。
この「とんかつ体験」でいくつかの気付きがありました。料理のプロセスが見えるため、提供されるものの価値や品質が想像され期待が高まることや、自分がいつまで待てばよいかだいたい見当がついて待つ不安が軽減されること、普段は得られないサービスが自分のためだけに準備されているという特別感、待つ時間が提供されるものの品質向上につながっているという納得感などです。
待たせ上手なお店といえば、ファミリーレストランチェーンのサイゼリヤの間違い探しゲームを思い浮かべる人もいるでしょう。キッズメニューに描かれた間違い探しのイラストは、大人でも簡単に正解できないほど難易度が高く、料理を待っていることを忘れて時間を過ごしてしまいます。またお客同士のコミュニケーションのきっかけにもなっています。
こうした待たせ上手なお店に共通しているのは、「客を待たせている」という自覚があること、それを「客はどう感じているか」に対する想像力があること、さらにそれを「通常のオペレーションの中で解決する」ための工夫があることでしょう。
品質と価格でモノの良しあしを評価する「コスパ」重視の時代から、その消費行動自体に時間を費やす体験としての価値があるかどうかを問われる「タイパ」重視の時代になっています。スマホ任せにしない客の待たせ方に今後も注目していきたいと思います。
著者プロフィール ◇渡辺 和博/わたなべ・かずひろ
合同会社ヒナニモ代表。1986年筑波大学大学院理工学研究科修士課程修了。同年日本経済新聞社入社。IT分野、経営分野、コンシューマ分野の専門誌の編集を担当。その後、日経BP 総合研究所 上席研究員を経て、2025年4月から現職。全国の自治体・商工会議所などで地域活性化や名産品開発のコンサルティング、講演を実施。消費者起点をテーマにヒット商品育成を支援している。著書に『地方発ヒットを生む 逆算発想のものづくり』(日経BP社)。
気象予報士×税理士 藤富郷のクラウドな話
「避暑地と鉄道」
最も有名な避暑地といわれる「軽井沢」は、群馬県と長野県の境に急勾配の碓氷(うすい)峠があり、移動が困難でした。そこで、明治26(1893)年にアプト式という線路の間の歯形のレール(ラックレール)と歯車をかみ合わせて急勾配を上り下りする方式で、鉄道を開通しました。それにより、上野駅から乗り換えなしで軽井沢に向かうことができるようになり、避暑地として大きく発展しました。現在は、北陸新幹線によって、都心から1時間程度で向かうことができるようになっています。
そのほか、冬のリゾートから始まり、夏の避暑地の開発に進んだケースもあります。その一例である長野県の「志賀高原」は、長野電鉄の創設者が命名し、スキー場から開発が進みました。鉄道を終点まで乗り、終点から避暑地にアクセスすることで、多くの人を避暑地に送ることができました。そのことにより、鉄道の利用者数も長距離で確保することができたのです。観光地開発と鉄道営業を一体化して、「総合リゾート化」が実現しました。
また、JRで一番高い所を走る小海線も避暑地を走る鉄道であり、人気の目的地は「清里」や「野辺山」です。40年ほど前は、大ブームにもなりました。
このように避暑地に高原が多いのは、高度が上がるにつれて大気の気温が下がるためです。乾燥した空気の場合は、1000m当たり9.8度下がります。実際の気温は、避暑地の地面が熱せられるためそこまで低くはなりませんが、毎年どこかで40度を超える中、30度以上になることはまれです。避暑地には、冷房とは違った”自然の涼”があります。
鉄道がつないだ日本の避暑地。単なる移動手段ではなく、涼しげな目的地を想像し、景色も楽しみながら乗る時間そのものが避暑への旅になります。暑さに疲れたら、レールの先の避暑地へと出掛けてみてはいかがでしょうか。
著者プロフィール ◇藤富 郷/ふじとみ・ごう
気象予報士、税理士。埼玉県三郷市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修了。大学院在学中に気象予報士に登録。日本テレビ「スッキリ」に気象キャスターとして出演しながら税理士試験に合格し、2016年に開業。21年に越谷税務署長表彰受賞。趣味の鉄道では、鉄道イベント出演や時刻表、鉄道模型雑誌にコラムを寄稿。プログラミングやダムにも造詣が深く、“複業”として得意を組み合わせて幅広く活躍中。地元の「三郷市PR大使」を務めるなど、地域との関わりも深めている。